唐組Experience その2


届いた台本を開く。
一度読む。何も考えずに。わからない言葉はそのままに読む。
二度目は知らない言葉の意味を追いかけるために辞書やパソコンを横に置いて読む。
三度目こそは。何かが掴めるだろうと、焦りながら読んだ。
焦ったのだ。
何も分からなくて。
おかしいわ。そんなはずはないわ、と自分を励ましつつ、四度目読んで愕然とする。やっぱり、何にも分からない。これなら本番を観た時のほうがいろんなことを思い、思考を展開し、想像を飛ばすことが出来たのに、戯曲だけを読んだら絶望するくらい何も分からないなんて、そんなことってあるんですか!
五度目はほとんど放心状態で読んだ。そんな状態で何も分かるわけがない。
そして放心のまま稽古場へ。
そこで、役者の声を聞く。
役者が発するセリフを耳にする。
私の放心は解ける。
“読むよりも観たほうがよく分かる”とは唐さんの本のことを誰かが話す時によく言われる。この「分かる」とは何についてのことなのだろうと不思議に思っていたけれど、ある瞬間に、「分かった」という感覚が生まれた。

稽古に行く前に戯曲を読んで、稽古を観て役者を観て、家に帰ってもう一度読む。それを続けて稽古が始まってから1週間経ったある日に突如、「分かった」のだ。難解だとよく言われるけれど、全て書かれているじゃないかと思った。
特に『動物園が消える日』はストーリー自体が分かりやすいというのがあるのだろうけれど、なぜここにこのセリフがあるのか、なぜこの登場人物がこれを言うのか、ストーリーの向こう側を見たと言えばいいのか。
「見た!」と言っても、唐さんが思った脳内が見えたと言っているわけではない。自分の中で一本道が見えたのだと思う。そもそも自分以外の脳内が分かるわけなどない。しかし、訳がわからないけど面白い、ではないのだ。訳があるから面白いということだったんだ。

私が一番初めに引っかかったのは、ミニーマウスのスイ子だった。
どうしてミニーなの・・・? 
ゴリラの着ぐるみを着た田口と、動物被り物つながり・・・? 
たぶん、ミニーという誰もが知っている着ぐるみを使って、「ない」ものを「ある」にしたのだ。
着ぐるみの中の、「私」
スイ子だけではなく、「私」たちにはみんなアバラという檻が体の中にある。では、その檻の中に何が住まっているんだろう? 着ぐるみを着ることで、逆に自分の生身を思い出す。自分の体に違和感を感じるために、着ぐるみは必要だったのだ。本当はいつだって肉体という着ぐるみを着ている。明らかに見える着ぐるみのミニーやゴリラの田口がいることで、見えない着ぐるみを着ている他の登場人物のことが分かってくる。サムは探偵の着ぐるみを着て、オドは妊婦の着ぐるみを着て、チキータは看護婦の着ぐるみを着ている。そして彼女たちは以前着ていたサニーの着ぐるみをもう一度着たい。飼育係たちは今まさにその着ぐるみを脱がんとしている。そして台場はカバヤの重役の着ぐるみ。

よくよく考えれば見えない着ぐるみばかりを着ている人間たちがこの街を歩いている。着ぐるみとは、自分が理解できる範疇の自分と言ってもいいと思う。あるいは顕在化された自分。スパイの着ぐるみを着ているオリゴはさらにもうひとつの着ぐるみを着る。灰牙に対して時計を渡す「女」の着ぐるみ。それはとてもシンプルに言えば、誰も彼も人間の間で生きるなら「本心」を隠していると言えるのかもしれない。ただ、それだけでは終わらない。「本心」だと思っている「自分」の中にはさらに檻がある。自分さえも見知らぬ動物が自分の中にいる。何重にも見えない着ぐるみを着て、それが自分であるという錯覚さえ起こすが、自分のアバラの檻の中に何が潜んでいるかを誰も分からない。人間という動物は見えない着ぐるみで着膨れしている。なのに、ドリちゃんはむき出しだ。現実的な檻の中に入れられていたとしても、ドリちゃんはドリちゃん以外の何者でもない。それどころか、水にさえ溶ける(サニーランド勤務の人々にとってはドリちゃんは水に溶けても存在しているという希望である。これも、ないのに、ある)
飼育係たちは、次の仕事の着ぐるみをしぶしぶ着るしかないとすでに用意しているのに、着ぐるみなど着ないと断言する新夜がいる。それをさらに後押しするように灰牙が現れる。灰牙は自分のアバラの檻の中に何があるのかを知っているのだろう。そんな人間は、人間社会にとって、「やっかい」だ。そんな部下を持っちゃぁ足立係長も大変だ。馬鹿じゃぁなぃと叫んだけれど、人間の世界ではきっと馬鹿の部類に入る。しかしそれを誰が笑える? 笑うどころか、灰牙の、「ドリちゃんはそこにいる」というドリームに、みんな希望を見る。儚く消えるだろうTDLの1日のように。消えるとしても、人々は夢見たい。灰牙のアバラの檻にはきっと何も住まっていない。自分には何もない、ということを灰牙は知っている。だからいつでもその檻の中に入れられる動物を探して飼育し、さすらうのだ。一瞬、そこにオリゴという理解不可能な生き物が入り込んだことはあっただろうが。

そう、オリゴだ。なんとも困った女。
最初、読んだ時にはオリゴの存在がふわふわしていて掴みきれなかった。オリゴって何だろうと考えても、台本のどこにも繋がらない。いや、ストーリーは分かる。企業スパイとして灰牙に近づいた。とてもシンプル。そんなあらましのことではなくて、オリゴという人間が分からなかった。半ば諦めたように台本を捲っていた時に、ふとサムのセリフが目に止まる。

「なんでもやるわ、今じゃ」

そしてスイ子のセリフが目に止まる。

「抜けられないです!」

はっとした。
オリゴを知ろうと、オリゴのことばかりを見ていたけれど、オリゴを知るためにはサムとスイ子を考えればいいのだと気がつく。
正体を隠し任務を遂行するサムは、まさにサニーランドでもぎりの四人娘として働いていた頃のオリゴそのものだ。
TDLの組織から抜けられないために自分の存在と恋心を明かしてはならないスイ子は、灰牙の前では本心をひた隠す、まさにカバヤに勤めるオリゴそのものだ。オリゴという女は一筋縄ではいかない。だってサムとスイ子、二人分の女の性質が住まっている。オリゴはスパイとして灰牙に近づき、ハニートラップ仕掛けるはずが、その後いつ、本当に恋心に変化していったのか、それともそれさえもハニートラップなのか、分からないままだ。きっとオリゴ自身にさえ、判断つかないのだろう。オリゴもまた、アバラの檻の中に何が住まっているのか自分でも分からないまま姿を消す。
分からないからこそ姿を消すのかもしれない。

ラストの屋台崩しのあのオリゴは、実際のオリゴではなくて、灰牙にとってのオリゴなのかもしれないと思う。とうとう飼いならすことの出来なかった女。ドリちゃんやあらゆる動物を飼いならすことが出来たさすらいの飼育係り灰牙は、たった一人の女を飼いならすことが出来なかったのだ。あれは、オリゴが夜間飛行を持ちながら外界をさすらっているのではなくて、灰牙のアバラの檻がさすらっている様なのだろうと思う。もう自分の手の中には「いない」オリゴを、自分の中にのみ「ある」ものにする、それこそドリームだ。
灰牙が「ない」ものを「ある」にするドリームを見させるTDLならば、台場は「ない」ものは「ない」と現実を直視させる管理職だ。夢はいつだって現実にぶち壊される。そんな台場さえ、一瞬はミニーに夢見るのだが、すぐに夢は跡形もなく消える。

ここに登場する男たちは、実は誰もかれもシンプルだ。自分の思ったことを突き進む。着ぐるみを来て内側に本心を隠していた飼育係たちも、新夜や灰牙に触発され「ワシ」になる。反対に、女は誰も彼も複雑だ。この物語は女によって複雑になり、女が振り回してる。なんとなく、きっとドリちゃんも雌なんだろうな、なんてことを考える。手に入る女ってすぐに飽きちゃうけど、手に入らなかった女ほど心の傷になって、ぐいっといつまでも痛みを伴って残る。痛みがある間は、「ある」になるからだろうか。

さて、これは私の中の道筋である。唐さんがこう考えたかどうかは知らない。
それは重要ではない。観た私が何を感じ取るかが重要なのだ。

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