御礼参りでなくてお墓参り

大阪にいるのだから。
お墓参りに行っておこうと思いまして。
もちろんお墓は京都にございます。
墓石をみると妙な気分になるものでございます。
おばあちゃんのお葬式の時に、
墓石の下のところをゴゴゴゴゴとあけたことを覚えております。
そこに骨を入れたのも覚えております。
死んだら骨になるんだなぁと思いながら、
お坊さんのお経を聞いていたことを覚えております。

私、と思う私は、お墓の中にいるたくさんの人たちが創った私だと思うわけです。

ご先祖がいるから今の自分がいることに感謝する、というのはとてもよく分かるのだすがね。
脈々と、脈々と連なってその先に私がいる、というのもよく分かるのだすがね。

墓石を見ていると、

私の中にはたくさんの人が住んでいるんだなぁと思うのです。
私の体は両親が創って、両親はおじいちゃんとおばあちゃんが創って、
途切れることなく今の私に繋がっているなら、
私のDNAにはたくさんの人が住んでいるのだなと思うと、

妙な気分になるんですな。

私と思っている私は、あんまり私じゃないかもな。

とな。

というか、もともと私はいないのかもな。

とな。

私は誰でもないのだ。

とな。

もしくは、私は存在するものすべてだ。

とな。

うううん、長く墓石を見ていると、墓石と自分の境目が分からなくなる。

というわけで稽古をするのでございます。


もう一段階、掘り下げてみたいのです。
いつだって発見を忘れない。
ひとはどんなことにも慣れてしまうから、
発見と挑戦を忘れない。
そうしたら、慣れている時間などなくなるから。
ファーストタイムと発見と同じだと思う。
はじめてのことを経験すると、
人は必ず発見をする。
はじめて出会うことだから。
お芝居が、いつだってそうなればいいと思う。

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